キラーアイドル 改訂版②
キラーアイドル
星野彩美
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この物語は、実話を基に、一部改変したフィクションとして描かれています。
なお、登場する地名、団体名、個人名などは架空のものであり事実とは一切関係ありません。
– – –
わたしは視線を向けられるのがもっとも嫌いなアイドル。そう……。なりたくてなったわけではありません。
わたしはネグレストの親に育てられた。そのため、わたしもネグレストだった。 育児放棄に近い状態にされた体験がふいにわきあがるフラッシュバックや夜驚、ぼんやりし たり記憶が欠落するといった解離状態、情緒不安定などの精神症状を呈す ることがある。わたしの場合は、とくに情緒不安定になる気質が見られる。
みなさんぁー……今日はわたしのコンサートに来てくれて、ありがとう!🎵すべての曲を歌い切ったアイドルは汗を掻いていた。
会場は熱気に溢れかえっていた。アイドル歌手へのやまない声援はしばらく止むことはなかった。
アイドル歌手はその声援に応えるべくとびきりの笑顔で両手をあげていた。怒涛に響き渡るコンサート会場内は、揺れるようにどよめいてる。その道第一線で活躍している人気アイドルであった。
彼女は手を振りながら控え室へと続くコンサート会場の通路を通りながら、溢れかえる観客の波に圧倒されず、慣れたようでハイタッチなどしながら下がっていく。
こんなわたしでも……アイドルをしている。コンサートを終えてすべて出し切ると、ドッと疲れが出る。
どうしてこんなわたしが大舞台で、「人から与えられた楽曲」を、ファンの前で「笑顔」を絶やさず、必死に汗をかいて、一生懸命に歌えているのか。そんなことばかりをいつもわたし自身の中で考えながら……葛藤してる。
毎日が自分との闘いである。何故か?
いつかは、バレてしまうのが怖いから……ネグレストのわたしを。
無気力で情緒不安定気味なわたしを。
不安で仕方ない。わたしなんて、アイドルには向いていない。けして……。そう思うだけで胸が締め付けられる思いだった。
幕が閉じて、わたしは控え室に戻る最中{さなか}、アンコールの声が響いている。わたしの顔から再び【笑顔】が消える。顔は強張り引き攣り気味で、また舞台で挨拶を考える。
ああ……面倒くさい。またあんな大勢の大衆の前に出ていかないといけないのかと思うと「気持ち」がすくんでしまう。「足がすくむ」というよりも、気持ちが先にすくんでしまう。言葉の意味として正しいかどうかなど、わたしにはどうでもいい。早く終わらせたい。
気持ちが落ち着かない。心臓がバクバクして張り裂けそうになる。ふぅ…ふぅ…ふぅ。
わたしはなぜ、アイドルをやっているのだろう。こんな気持ちのままで続けていいのだろうかと自分に疑問を投げかける。
楽屋に入ると真っ先に椅子に「ドカっ」と腰掛けて水を「ゴクゴク…」と飲み干して、タオルで汗を拭うと自分を奮い立たせるように、気持ちを引き締めるために、1分間深呼吸しながら静かに目を閉じる。こんなことはいつものこと…気持ちを落ち着かせよう。
煩悩を取り払うかのように頭の中を空っぽにする。
ふぅ……ふぅ……ふぅ……。目を閉じながら頭の中で意識を一点に集中させる。そんなことは、いつものことだった。
だいぶ落ち着いてきた……。そろそろ行けるかな?大丈夫かな?わたし自身の気持ちを落ち着かせるこの方法は、学生時代に身に付けたもの。自分で考案したものなので、これが正しい方法かどうかは分からない。心理カウンセラーに相談したわけでもないしね。よく学校の先生には、病院に通うように言われていたが、わたしは行かない。行きたくもない。
どうせ、皆んな言うことは同じ…。同じセリフばかり言われるだけ。そして、病院をたらい回しにされて。もう聞き飽きた。そんなとき、精神的に参っていると、なぜか思いだすメロディがある。記憶の彼方に置き忘れてきたような…はっきり記憶していないから朧げ{おぼろげ}にしか思い出せない。
いま、こうして楽屋で呼吸法をしながら、「ふと」思い出していた。
ふふふ…🎵ふ〜ふん…♬
毎日仕事へ行く前でさえ、家の玄関から一歩外に出ることに躊躇{ちゅうちょ}する。そんなときは、わたしはD.カーネギーの言葉を思い出します。彼は偉大な人物だ。
「成功は、前へ進む勇気を持って最初の一歩を踏み出す者に訪れる。」- デール・カーネギー
今のわたしにとっては最大の活力の源の名言だった。わたしの生きるための糧だ。心の中にその言葉を収めながら勇気を出していた。
一歩、一歩踏み出せ……成功への近道。カーネギー…あなたの勇気をわたしにください。わたしは控え室で顔を覆っているタオルを取り、椅子から立ち上がり、そのドアを出る。
わたしの母はわたしが学生時代からある施設に入っていた。
今のわたしには面倒を見切る余裕もなかった。わたし自身がネグレストなので。学生時代はいつも、死にたいとSNSから数少ない友人にDMを送っていました。
そんな暗いDMばかり送るわたしに友人は避けていきました。だんだんと離れていく。遠ざかっていく。唯一無二の親友の麻里だけが、わたしに寄り添ってくれました。優しく声をかけてくれました。
わたしは陰ながらいつも見守っているよ……。
アサミを応援しているよ……。麻里の笑顔を思い出しながら。励ましてくれる彼女を感じながら、ひたすら頑張っていた。
わたしは、麻里がいなければ今ここに存在していない。
おそらくラッシュに混み合う駅のホームから飛び降りていただろう。
わたしはもう何度かホームから飛びおりようとしたことがある。何回もイメージトレーニングまでしていたし。それだけ、精神的に追い込まれて錯乱状態になり胸が締めつられるように圧迫され頭の中…脳内が破裂しそうに苦しめられる。これは経験した人にしかわからないだろう。本当に苦しい。息が詰まる。激しい呼吸困難と過呼吸に襲われる。はぁ…はぁ…はぁ…。
その場に居ても立ってもいられなくなり、落ち着かなくなる。
苦しくなる。ベッドに潜り込んで、掛け布団を被り右を向いたり左を向いたりしても落ち着かない。苦しくて苦しくて、この苦しみから逃れようと誰かわたしを殺してほしい…といつも考えていた。
コンサート会場でアンコールの中、わたしは気持ちを奮い立たせてステージに向かう。
そして、歌いながらステージに出ていく…。
ギターの響く音に合わせるように、声を甲高く響かせて。今日も喉の調子はとても良い。
こんなわたしだけど、人よりもズバ抜けた才能を持っていた。
歌とダンスだけは人々の目を引きつけるものがあり、幼少期から備わっていたようだ。特に歌は周りのどんな人よりもずっと上手くて得意で、定評があったし、負けない自信もあった。しかし、それにふさわしい笑顔は備わっていませんでした。気持ちと心だけが正反対のわたしだった。
コンサートが終わったときが、1日の中で1番ホッとするひとときです。今日を一気に駆け抜けた感覚があります。今日一日、バレずに過ごせたことに、ほっとできる時間だった。しかし、家の玄関に帰るまでは気は抜けない。常に不安を抱えたままです。まだ気持ちを心から解放してはいけない。
わたしは薄茶色のぬいぐるみのような色の帽子を深くかぶり、サングラスをして、エリの高いコートで自分の姿を隠していた。そして、颯爽と足早に歩いている。
先程まで、アイドル活動していた頃の自分を思い出していた。
でも、今は違う。状況が180度変わり果てていた。身を隠さなければならない存在になっていた。
「来栖アサミだな……?」
いつの間にか数人の男性に囲まれていた。男たちは紺色の制服に身を固めており複数人でアサミに近づいてきて、両腕をガッチリと捕まえてガードした。とうとう気づかれてしまった……。愕然としていた。アサミは視線を地面に落としていた。今までがんばって、バレずに過ごしてきたのに……。顔を引き攣らせて肩を落としながら、「はい……そうです。」と答える。数人の男たちはわたしの左右に立ち、両腕を再びガッチリと掴んでガードする。道路脇に停められた通称「パンダ」のドアを開けられて中に押し込められる。
「入れ!」終わった…わたしの未来。これからのアイドル人生も、すべて。ごめんなさい、お父さん。
わたしはアイドルをやっていてはいけない人なんだ。無価値な人間。人々に勇気や希望を与える立場には向いていない。わたしはついに拘束されてしまった。拘束されたらある場所に連れて行かれる。
名前ではなく「番号」で呼ばれる場所。アイドル活動を休止しなければならない理由がここにはあります……。
わたしの母も同じような施設に入っています……。そこは、普通の施設とは異なる施設です。わたしもその施設に入ることが避けることができなかった。この先のわたしにどんなことが待ち受けているのだろう。彼女の中に不安がよぎっていた。
冷たく淡い光が冷え切った廊下を照らしている。
カツ……カツ……キィ。冷えたような固い足音が建物内に響き渡る。
「入れ!48号」開けられたドアの先は真っ暗だった。
彼女は狭く重苦しい部屋に案内された。
ドアが開いた瞬間に隙間から「ぴゅ〜」と冷たい空気が音をたてながら吹き出して肌を包み込んだ。身を震わせながら押し込められるとドアが閉められる。
ドアの小窓から冷たい目でこちらを監視官が覗いていた。施設内は静寂で静まり返る。室内には最低限の物しか置かれていない。無機質なモノトーンの壁や床は、圧し掛かってきそうな重圧感。窮屈で息が詰まりそうだ。ネグレストのわたしは、押し潰されそうな気持ちで息苦しさを感じます。
ふぅ…ふぅ…ふぅ。苦しい。
しかしこれは避けられないことだ。わたしが起こしたことなんだから。こんな場所にいつまで…。耐えられない。
アイドル活動を休止しなければならない一定期間があった…。
世間では休養と認識されていますが、実際は違います。
バンド名は「キラーアイドル」殺人犯……。
そう、裏の顔は殺人犯です……。
わたしは人を殺めてしまったアイドルです。
ここでわたしは何をやるんだろうか……。まだ頭の中が整理できていない。こんな重圧の中で耐えられるかどうか……。はぁ……はぁ……はぁ……。わたしはそのまま気を失ってしまった。目が覚めると、ベッドに横たわっていた。
「ここは……?」バサッとベッドから起き上がり辺りを見回す。
気づいた?アサミさん。
本当は施設内で名前で呼ぶと叱責されるんですけど。あなたは知名度があるので、そう呼ばせてもらえますか?
……はい。でも、わたしのことは気にしないでください。アサミは今だに震えが止まらず、両手を抱えていた。
ベッドの脇の柔らかそうな椅子にシミひとつない白衣を着た女性が座って話しかけてきた。
見るからにアサミより歳上の女医といった感があった。
あなたは……何か病気をお持ちなのですか?四角い細長いメガネをした女医はわたしに話しかけてきた。
わたしは、ネグレストなんです。時折、パニック障害が出ることがあります。
パニック障害について説明させていただきますね。アサミさん。
別にいいです。聞きたくもありません。
いいえ、あなたにはきちんとした治療を受けてもらいます。
イイって言ってるでしょう…聞きたくもないわ。
いいから黙って聞きなさい!
アサミは、一瞬「ビクッと」しながらも無言のまま頷くしかなかった。
パニック障害は、突然の強い不安や恐怖、または「パニック発作」と呼ばれる急な身体的症状を伴う障害です。以下、その症状、向き合い方、治療法についての基本的な情報を話しますので聞いてください。
**症状**
– 突然の強い不安や恐怖感
– 身体的症状(心拍数の増加、息切れ、ふらつき、吐き気、汗など)
– 現実感を失う感覚
– 死を意識する感覚
– 具体的な状況や場所での発作(例: 閉所恐怖症など)
**向き合い方**
– 症状を受け入れる…まず大切なのは、自分の症状を受け入れることです。恐れることなく、自分の感じる不安や身体的な変化に対して対処していきましょう。
– 深呼吸やリラックス法…恐怖心が高まると、呼吸が乱れることがあります。深呼吸やリラックス法を取り入れて、落ち着くことを試みてください。
– 周囲にサポートを求める…家族や友人に状況を伝え、理解を得ることが重要です。一人で抱え込まず、支援を受けることができるようにしましょう。
**治療法**
– 認知行動療法(CBT)…症状に対する不合理な考えや行動を変えるための心理療法です。恐怖感や過度な反応を軽減する手法を学びます。
– 薬物療法…医師の指導の下、抗不安薬や抗うつ薬が処方されることがあります。これにより症状を緩和し、治療を支援します。
– マインドフルネス瞑想…ストレスを軽減する手法として、マインドフルネス瞑想が有効です。自分の感情や状態を受け入れることを学びます。
最も重要なのは、専門家の指導を受けることです。あなたはそれを避けてきた。それが症状を悪化させてる要因のひとつ。パニック障害の症状は個人差があり、治療法もその人に合わせて選ばれるべきです。医師や心理療法士と協力して、適切な治療を見つけることが大切です。
あなたは今まで一度も治療を受けたことがない。
ここでは、きちんとした医療法を受けてもらいます。
いいですね?女医は塞ぎ込んでいたアサミに念を押した。
…はい。わかりました。わたしはネグレストの母に育てられたんです。
ネグレスト……?そうだったの……あなた、そんな酷い状態でこれまでよくアイドル活動ができたわね。普通の人だったら無理だわ。教えてもらえる?どうしてこうなったのかしら。女医は語りかけるようにゆっくりした口調で喋る。
…黙秘します。
わかったわ。あなたが自分から話してくれるまで待つわ。今は、先にその病気を治療しないとね。精神科医に診てもらう必要があるわね。これまで病院には行ったことがないの?
いいえ……全く。行ったことはありません。
母が同じ症状だったので、母を連れて病院に行ったりはしていました。しかし、どこの病院も断られた。ようやく診てもらえても医者が言うセリフは皆んな、同じことしかいわない。
経過観察。様子を見ながら治療していきましょう。としか言わない。
ちょうど感染症のウイルスが世界を蔓延していた時期と重なってしまったこともあるから仕方ないことではありましたけど。
だから、わたし…
今までどうやって症状を抑えてきたの?
自分で工夫した方法です。自分がネグレストであることを誰にも知られたくありませんでした。アイドルですし、立場というものがあります。こんなアイドルだったなんてファンの人たちに知られると期待を裏切ることになってしまう。そんなこと出来ません。だから…。
アイドルは、皆に夢や希望を提供すべき存在。その私がネグレストだなんて……。そんな姿は見せたくないじゃないですか?
あなたのライブ、拝見させてもらいました。とても素晴らしいライブでしたよ。本当に輝いていました。
あなたのコンサートの映像を観て、皆んながあなたから大きな力を受けているのは確かなことだと思いますし、私も感動しました。私は仕事柄あまりコンサートなどを観る時間がありませんが、なんだかワクワクしてしまいました……。
やめてください。お世辞はいりません。私は与えられた仕事をただこなしてきただけです。これも仕事なんです。わたしにとっては夢や希望などありません。ただ、無意味に仕事を黙々とこなしてきただけです。言われたことだけを淡々とこなすだけです。
わたしが不得意な笑顔まで作って。言われなきゃ笑顔すら出来ない。
毎日のように、「アサミ、笑顔笑顔」って罵声されて。
そんなこと言うべきじゃないわ。あなたが成し遂げてきたことは、誰も真似できないわ。それもとびきりの笑顔で。あれは言われてできるような笑顔じゃない。あなたらしい自分を知らずに見つけている。いつの間にか身につけている。それはあなたの防御本能みたいなものよ。アサミは法務教官の言葉を黙って聞いていた。
アイドル歌手の一日のスケジュールは忙しいものとなるでしょうね。アイドル歌手の典型的な一日のスケジュールを想像してみたわ。
朝
- 朝食と健康的な食事摂取。
- モーニングエクササイズやストレッチを行い、体調を. 整える。
午前
- メイクアップアーティストやスタイリストとのミーティング。ステージやイベントに合わせたメイクや衣装の相談を行う。
- 振付師とのリハーサル。新しいダンスルーチンやパフォーマンスの確認と練習を行う。
昼
- 昼食。栄養を摂りながらリラックスする時間。
- インタビューや広告の撮影、雑誌の取材など、メディア関連のスケジュール。
午後
- レコーディングスタジオで新曲の録音。ボーカルのセッションやアレンジの確認を行う。
- 次のライブやイベントのリハーサル。楽曲のセットリストやステージングを確認する。
夕方
- マネージャーやスタッフとの会議。スケジュールの調整や次のプロジェクトの計画を話し合う。
- ファンとの交流イベントやサイン会など。ファンとのコミュニケーションを大切にする時間。
夜
- 夕食。体力を保つための栄養を摂取し、リラックスする。
- ダンサーやバックダンサーとの練習。全体のパフォーマンスの連携を確認する。
深夜
- メンタルケアやリラックスの時間。音楽を聴いたり、読書したりして心を落ち着かせる。
- 次の日のスケジュールの最終確認や準備を行い、就寝の準備をする。
あなた方のような芸能人の方々は忙しいスケジュールの中で、とくにアイドル歌手はパフォーマンスや音楽制作に加えて、健康管理やファンとの交流、メディア対応など多岐にわたる活動をこなしてきたはず。
これは大変な過密なスケジュール。これをあなたはずっとやってきたし、こなしてきた。
わたしは【組織】に所属している側の人間です。言われたことを機械のように、ロボットのように精密に動くだけです。
アイドルとしての感情すら、組織に管理されてます。
わたしの意識とは別物です。
こうしなさい…ああしなさい…ここはダメ…アレはいけないと言われて指摘され指示されたことだけを行動するだけ。
妄想など決してありえません。わたしには意思はありません。
そうでないと壊れてしまう。わたしの精神が。
組織から言われた圧力がないと自分では行動には移せないんです。怖くて。否定されそうで。自分自身を。
だから、あれは本当のわたしではないんです。
言うなれば、わたしが本当になりたいわたし自身。
ユング的に言えば「シャドウ」です。
イメージした自分のシャドウを思い描きながら、演じている別の自分。
アサミさんは学があるわよね?ユングなんて。
読書が好きなんです。移動中はよく読んでました。自分の世界に没頭できますから。
それに、あなたおかしなことをいうのね。組織なんて。
プロダクションでしょう?
あなたの言う組織とはなんなの?
わたしは、ロボットですよ?だから組織と言ってるまでです。
ま、いまのあなたにそれを聞こうとしたところで、あなたは否定するでしょうし、口は割らないでしょうね。
それすらも、自分の意思とは無関係のこと。
組織に言われたように、組織にインプットされたことだけを喋るだけでしょうからね。
あなたには、カウンセリングを受けてもらいます。
本当のあなた自身を取り戻せるようにわたしがお手伝いします。これは「命令」です。いいわね?
…アサミは仕方なく無言のまま、頷いていた。
アサミは、病気の治療を受けるために施設に入ることを決意しました。決意というより、入る以外は選択肢はない。施設の門をくぐり、とはいえ、同じ敷地内で同じ建物だが。広がる静かな雰囲気に少しばかり緊張を覚えながらも、彼女は内に秘めた僅かばかりの希望を胸に抱いていました。これは彼女にとっては気持ちの変化の現れだったのかもしれない。自分自身で心の中に僅かな「希望」というポジティブな単語が思い浮かぶことなど、今まで数えるくらいしかなかった。
忙しくて考える暇もないほどだった。睡眠時間など数時間あれば良い方だった。
施設内に案内されると、アサミは白い壁と控えめな照明の廊下が広がっているのを見ました。その廊下には静謐な雰囲気が漂っており、彼女は落ち着きを取り戻しつつありました。
建物内は、先程の場所とは違う雰囲気が漂っていた。包み込まれるような優しく抱かれるような…そんなオーラというか。何だか温かい。身体がではない。心が解放されるような穏やかな気持ちになる。束縛されなくていいんだ…もう。管理されたわたしの生活から。あれは生活ではない。縛りつけの拘束。監禁状態のような監視された生活。
いつも不安だった。ドキドキしていた。もうあんな生活は嫌だ。戻りたくない。そんな別の自分が心の隙間から外に這い出てこようとしている。
わたしは胸を両手で抑えて締め付ける。ダメ。出てきてはいけない。わたしはマシン。機械なんだ。精密に与えられたプログラムを完璧にこなすだけの道具。人ではない「人で無し」だ。
こんな施設での生活なんてわたしにとって「アイドリング」停止状態の無駄な時間でしかない。
はやく服役を終えて戻らないと。
「アサミさん?何してるの。こっちです。」
法務教官が案内してくれた一つの部屋に入ると、そこにはシンプルなベッドとテーブル、窓から差し込む温かい光がありました。
刑務所じゃなくて、更生するための施設ですからね。
あなたの場合はカウンセリングも兼ねてます。
言わば、学校みたいなものよ。気楽に考えなさい。
「こちらがあなたの部屋です。お荷物は片付けていただいて結構です。ここで落ち着いて、自分自身と向き合っていただきます。何かお困りのことがあれば、いつでも我々スタッフに声をかけてください。言い忘れましたが、あなたには相部屋を使ってもらいます。ルームメイトがいらっしゃるので、仲良くしていくことから始めてもらいます。」
あの…その方は今どこに?
今、別室であなたのようにカウンセリングを受けてます。
彼女は2年の服役の期間中の最後の半年をここで生活しているんです。言わば社会復帰のためのカリキュラムのひとつを受けることになってます。
芸能人であるあなたのことはまだ彼女には内緒にしています。
女性ですか?
ええ、もちろんでしょ。男性と同室にしたらどんな過ちが起こるか分かりませんからね。
別に…わたしはなんでもいいです。処女じゃありませんし。
わたしにとって、肉体も武器のひとつなんです。
そう身体に叩き込まれてきました。道具なんです。
わたしの気持ちも身体も…。
曲売りたいなら…コンサートをしたいなら…番組に出演したいなら…それ以上は言いません。
何をしたかされたか、おおかた想像通りです。
アサミは先ほどまでの穏やかだった顔つきからは想像出来ないくらいの表情をした。目は見開き眼光が鋭くなり釣り上がった目尻には恐怖され感じてくる。
あなたのような若い方に…噂では聞いてましたが。
…この子の心の中、奥底はかなり深くて闇だわ。底なしの海底、海峡と同じ。病んでる…荒んでる。この年で。
わたしの考えです。勘違いしないでください。
プロダクションも関係者も一切関係ありません。
自らしでかしたことです。
選択権があるのは、わたし自身です。
プロダクションも関係者も強制はしません。
あくまでもわたし個人の意思によるものです。といいながらも、アサミの下がった両手は握りこぶしになっていた。考えると怒りを露わにして、殊更そのことを強調しては、身が震え出してくる。
個人ってね。あなた…それって選択権のない半強制的な無言の圧力。暗黙の了解みたいなものじゃない。そういうのをあなたの意思とは言わないわ。法務教官はアサミの両腕を優しく掴むと宥めるように喋る。
あなたの言う言葉は信用できません…と法務教官は言いかけたが口をとじた。言ってはいけない言葉がある。
それは患者を否定すること。わたしたちカウンセラーは、彼女が今までしてきたことを否定せずに、肯定してあげてアドバイスをしていく立場なんだから。ふぅ…とひとつため息をつくことも患者の前では躊躇われる。ため息をつくということは、相手の言うことを否定して我慢の上に出る現象のように捉えられてしまう。
さあ…お入りになって。もうここはあなた方のお部屋です。法務教官は先にドアを開けて中に入ると小窓を開けて風通しを良くした。カビ臭さが残らないように取り払うためだった。細かい気配りは大切なことだ。そこまで気を遣ってあげないと、こういうタイプの人はすぐに滅入ってしまう。負のエネルギーがたまらないように。また正のエネルギーを与え続ける必要さえある。
ひと通りの室内の様子を見回ると、法務教官はアサミを見つめて、目を見ながら喋り出した。マニュアル人間から脱したいなら自分の「独創性」「創造性」「柔軟」「自由な発想」などを磨くことね。マニュアル人間は手順や規則に忠実に従い、柔軟性や創造性に欠けることがあります。あなたには、受動性も硬直性も見られる。近頃の企業にもよく見られます。受託者とは知らず知らずのうちにそうなってしまう。このサイクルにハマってしまうと抜け出せなくなる。気づいた頃には手遅れになっていて、取り返しのつかないことになってたなんて、よく耳にする話しでしょう。だからこれに対立する概念は、柔軟で自由な思考や行動を示すものとなります。
絵を描いてみたり、曲を作ったり、あなたはそういうのが得意なんじゃなくて?笑
今度は、「人に与えられた楽曲」じゃなくて、あなたが作ってみたら?あなたには他の人にはない特別な才能があるわ。あなたは必要のない人間なんかじゃない。
それと…間違えてもジキルとハイドにはならないようにね。
学があるあなたなら分かるわよね?
あなたのような方によく見られるのよ。
それじゃあね。
法務教官は、語りかけるように優しく丁寧に説明すると、アサミは軽く頷きました。法務教官が部屋から退室するのを見守りながら、出るのを確認するとアサミは、ため息混じりにゆっくりとベッドに座り、窓からの日光を浴びながら深呼吸を繰り返した。この場所で過ごす時間が、自分の内面と向き合う大切な時間であることを心に感じていた。
しばらくすると廊下から足音が聞こえてきた。横になっていたらいつの間にか寝ていたようだ。
足音は遠くのほうから徐々にアサミのいる部屋に近づいてくるようだった。音は次第に大きくなっていく。コツコツ…
アサミの耳の奥と胸を締め付けるように圧迫されていく。
ベッドに座ったまま自分の両手で耳を塞いでいた。
はぁ…はぁ…はぁ。ふぅ…ふぅ…。
…落ち着いて。落ち着いて。大丈夫、大丈夫よ。アサミ。
アサミは心の中で必死にもがいていた。こんなこと、いつものこと。
ヤツらはいない。もういないのよ。
アサミは耐えられなくなり、ベッドに入ると掛け布団に包まり、壁際に身体を密着させて、震え出した。
壁際に身体を這わせるようにするとなぜか気持ちが少しだけ和らぐ。
足音は部屋の前で止まり、廊下から囁くような話し声が聞こえる。
ヤツらだわ。ヤツらがきたのよ…いやぁぁぁーーー!やめて!
ガチャ!アサミさん!アサミさん!どうしたの?
部屋の外で話していた法務教官が、アサミの取り乱す声に反応して急いで入ってきた。
大丈夫よ。大丈夫だから…ね?落ち着いて。
深呼吸しましょう。深呼吸…ふう、ふう、ふぅ…
カウンセラーは、わたしを胸の間に抱き締めると優しく背中をトントン…と叩く。まるで母親の心音のように。
…落ち着いた?アサミさん。はい…。大丈夫です。
彼女よ。あなたのルームメイトは。
アサミはカウンセラーの胸からそっと顔をブルブルと震わせながら、覗き込む。
そこには小柄な女性が荷物を前にしてちょこんと立っていた。
「こんにちは!」
ふ…ふ…ふー♬ふん…ふーん♪
わたしはメロディを鼻歌で奏でていた。何故か落ち着く曲がある。「キラーアイドル」の楽曲ではない。昔、聴いたことのある曲だった。たまに思い浮かぶ。わたしの記憶の奥底に置き去りにされたようだった。すると、ある情景が脳裏をよぎった。しかし、ハッキリと思い出すことはできない。幼少期…おそらく4歳か5歳くらいだろうか?
誰だろう。わたしを抱っこして、肩車して。お父さん?
お父さんはわたしが幼い頃にこの世を去っていた。父は子煩悩だったと母から聞かされたことがある。お父さんは小さなわたしを肩車して歌を歌ってくれた。
その曲がわたしの脳裏から離れなかった。
落ち着く…お父さん。
アサミ…アサミ…アサミ!アサミさん!大丈夫?
ハッ!わたしは我を失っていた。
…は、はい。大丈夫です。落ち着きました。
ご迷惑おかけして申し訳ありません。
彼女よ。あなたのルームメイトの結花ちゃん。
小柄な女性はわたしに頭を下げてきた。ニコッと笑って微笑む彼女には愛くるしさがあった。
わたしは相変わらずカウンセラーの胸に抱かれながらも女性の顔を見つめていた。見つめるというより睨んでいた。
身を震わせながら。わたしは片時もカウンセラーの両腕を離さなかった。
隙を見計らい、カウンセラーから離れてベッドに入り込んで掛け布団を頭から被り、横になると身体を丸めていた。
結花さん。あなたのお部屋です。彼女はあなたのルームメイトの…。
来栖アサミさん!ですよね?結花は満面の笑みでアサミを見ていた。
そして、カウンセラーの小百合に叫んだ。
シィ…静かに。大声で怒鳴ったり叫んだりしないように。
小百合はアサミに聞こえない程度の囁くくらいの微かな声で結花に話し始めた。
ネグレストやパニック障害や認知症の人にはそういう行為が1番いけないの。また間違えても後ろから声をかけたりしないようにね。病気の進行が悪化するから。分かったわね?
驚かすことがもっともいけないことだから頭に入れておいてね。いいわね?小百合は結花に再び念を押した。
はい。分かりました。
結花さん。アサミさんにご挨拶して。
こんにちは。アサミさん。わたし…ずっとあなたの大ファンだったの。あなたのコンサートも数えきれないくらい行ったわ。逢えて光栄です。まさかアサミさんと同じ部屋になるなんて夢のようです。握手しましょ?ね?
こ、来ないで!わたしに近寄らないで!
アサミは芸能界に入ってからこれまで、ずっと1人で生活してきた。
ましてや、同部屋を他人と共有するなんてありえない事態に驚きと戸惑いを隠せなかった。困惑していた。
じゃあ、あとはお二人にお任せします。2人とも仲良くね。
アサミさんも自分としっかり向き合いながら、結花さんとも話せるようにね。じゃあね。がちゃ…。
結花さん…ちょっといいかしら?
…は?はい。
小百合はアサミのほうをちらっと見ると、結花の手を引いて部屋から出る。
アサミさんはね。精神的な病気なの。あなたも知ってるとおり、仕事が特殊だから精神不安定に落ちいることが多い。
芸能関係者には、よく見られる症状なの。
気遣ってあげてね。あまり芸能のことを聞いたり話したりすることは禁止します。彼女個人として接してあげて。とくにあのような人は自分を自虐する傾向にあるから。否定せずに肯定してあげてね。彼女がたとえ間違ったことを言っててもよ。いいわね?小百合は繰り返し、結花に念を押した。
分かりました。先生…わたしは彼女に救われたことがあるんです。
あのとき。彼女がいなかったら、今わたしはここにいません。
だから、彼女を尊敬していますし、崇拝しています。
ありがとう…じゃあ頼んだわよ。何かあったらすぐに呼ぶこと。いいわね?ここでの生活は明日から始まります。今日はゆっくり休んで、明日からの生活に備えてください。
詳しいことはお渡ししたノートを目を通しておくように。と結花の肩を軽くポンッと叩く。
結花はゆっくりと頷いた。部屋を見回すと殺風景だ。アサミは布団に包まったまま微動だにしない。
結花は、1人取り残された感があった。部屋にはわたし1人しかいないんだ。よし、これからはそう思うことにしよう。
結花はとりあえず明日からの生活のリズムを調べることにした。
…わたしが覚えておけば、アサミさんに伝えることもできるしね。なになに…うーむ。まるで学校みたいじゃん。
【更生施設のスケジュール】
更生施設のスケジュールには、いろいろなカリキュラムが記載されていた。
スケジュールは教育、再社会化、リハビリテーション、心理的サポートなど、様々な要素を考慮して組まれています。施設によって異なるため、具体的なスケジュールは状況によって異なることに注意してください。
**朝**
– 早朝起床。寮や宿舎での起床時間は設定されている時間を忠実に守ってください。時間厳守!
– 朝食は栄養バランスの取れた食事を提供します。残すことは厳禁とします。与えられたものに感謝していただくこと。
生き物の生命をいただくという気持ちを持って。
**午前**
– 学校や教育プログラムへの参加。学業や職業訓練を行います。更生後に、社会復帰するためのプログラムが組まれています。
社会復帰したら、すぐに順応できるように訓練します?
– レクリエーションやスポーツ活動、運動の時間を設けてあります。教育プログラムには学習以外のプログラムも組み込まれています。身体を動かして汗を流すことの重要性を考えます。
**昼**
– 昼食。食事の後は休憩や自由時間が設けてあります。
毎食後に休憩や自由な時間があります。気持ちや精神を整える意味も含まれています。
**午後**
– 学業や教育プログラムの続きを行います。文化活動やアート、手工芸などのプログラムも実施されることがあります。
学習とは別のプログラムを実施します。主に芸術性を養うために設けた時間です。
– 心理的サポートやカウンセリングセッションがある場合もあります。精神的なサポートが必要な受講生はこちらを重視しています。専門家からの知識やアドバイスやサポートがあります。
**夕方**
– 夕食。食事の後、清掃や寮の整理整頓の時間が設けてあります。夕食後は寝る前の身近な整理整頓を行います。きちんとした決められた時間に整理整頓することが身につく努力をしてもらいます。
**夜**
– 自習や勉強の時間が設けてあります。宿題を仕上げたり、学習支援が行われます。
昼間のプログラムでの不明点などはこの時間に踏み込んで聞いてください。
– 休息やリラクゼーションの時間もあり、テレビや読書などを楽しむことができます。唯一の娯楽の時間です。
気持ちを解放して楽しんでください。
**就寝**
– 定時の就寝時間が設定され、安定した生活リズムを維持するために努められます。
以上が更生施設での1日になります。不明点があればカウンセラーに聞いてください。
ふ〜ん。きちんとした規律ある生活を身体に叩き込まれるみたいね。拘置所とは言わないのね。
ここに来てから、刑務所とか拘置所なんて言葉は聞いたことがなかった。
刺激を与えないようにカリキュラムに組み込まれているのかな?
結花はアサミを気にしないように荷物をひろげて自分側が使うベッドとベッドの下に荷物をしまいこんだ。
あまり部屋の中がごちゃごちゃしないようにした配慮だろうか。
アサミは寝てしまったのか布団が微動だにしない。
刺激しないようにって言われたもんね。
彼女から喋ってくれるのを待つほかなさそうね。
…分かってる♪ 伝わってくる♪ あなたの想い♬
言わなくても♪ あなたならきっとこういうだろう♬
それはお互いの信頼の証し♪…
良い曲よね…キラーアイドルの「あなたへの証し」
【私の知ってるアサミさんとまったく違う。まるで別人みたい…どうしちゃったんだろう。何かが彼女にあったのかな。アイドルのアサミさんは、画面のなかでキラキラ輝いていた。皆んなに元気と勇気と希望を与える存在だった】
ちょっとトイレ行ってきますね。アサミさん…
…結花さん。
結花が部屋から出たらカウンセラーが手招きして呼んでいた。
小百合は心配そうな怪訝な顔つきをして結花を迎えた。
はい?なんでしょう。
その後、アサミさんの様子はどお?
落ち着いてるみたいですけど、わたしとは話してくれません。
布団に包まったきり微動だにしません。
いったい彼女に何があったんですか?
わたしの知ってるアサミさんじゃない。
ごめんなさいね。個人的なことは一切明かせないのよ。
そうねえ…言うなれば、彼女はもともと精神的な病を患っているのよ。今まで育ってきた環境からストレスと不安と重圧、プレッシャーに押しつぶされてしまった。
それが病を加速させたようね。あの子は私たちじゃあ到底理解出来ないような重圧の中で生きてきた。
あなたなら、彼女を変えてあげられるんじゃないか…そう思ってね。
だから、思い切って同部屋にしてみたのよ。
そうですね…だっていまの彼女は2年前のわたし。
わたしはネガティヴだった。何をしてもうまくいかず、後ろ向きで控えめだった性格に追い討ちをかけるように不幸が次々と舞い込んできた。
もう死んでしまおうかと、街に出てフラフラしていたら怪しい男に声をかけられて、意識が朦朧としてきて…あとのことは記憶にない。
それから月日が流れて気がついたらある施設にいた。
事件に巻き込まれて、収容され…。
しかし、わたしを変えてくれたのは、あるライブ。
それはわたしが今まで見たことのない伝説のライブ。
わたしの人生を変えてくれた。
言葉に魂と人を動かす力があるとするなら、この事を言うんだろうと感じた。画面越しからもビシビシと伝わってくる熱気に声…そうだ。ボーカルの女性のこの声なんだと思った。
ボーカルの女性の温かな響きと躍動感ある迫力の声…わたしの魂は揺さぶられた。言葉と声だけで人に訴えかけるとてつもなく大きなオーラ。
声で人をここまで動かすことができるって、どんな人なんだろうと感じ、手紙を何枚も送った。が、もちろん返事はない。
そのあとに彼女が活動休止したのを知った。
それから2年。
目の前にその本人がいる。来栖アサミ…その人だ。
わたしはアイドルになりたいんじゃない!
わたしがなりたいのは、ロックシンガー。
アサミはムクッと起きると掛け布団の隙間から部屋の様子を見回す。あの子はいない。私物のほとんど入っていないリュックをベッドの下から取り出すと中から手鏡とブラシを取り出して、鏡を見る。
疲れた女性の顔が睨みを利かせてこちらを見つめ返している。
誰?このヤツれた不細工な顔の女は。鏡の中の女性はアサミを睨んでいた。険しい顔つきで眼光が鋭い。
髪の毛は乱雑になり毛先は外に跳ねていた。
長いロングだった髪はバッサリとショートになっている。
自分自身で切ったんだと気づいた。
そっか…わたし自分であの時、切ったんだっけ。
もう思い出すのはよそう。そうは思ってもあの顔はわたしをキッと見つめたまま死んでいた。あの顔は忘れられない。
アサミは顔を左右にブルブルと思い切り振ると記憶から飛ばそうとしていた。頭を抱えて髪の毛を掻きむしる。
あの子…なんて名前だっけ?わたしのことを知っていたっけ。
キラーアイドル…そうバンドのファンとか言ってたな。
もう戻ることのできない、戻れないバンド。
伝説のバンドになってしまった。いいや。あんなの。わたしじゃない。わたしがやりたかったことをすべて奪い去ったあんな場所になんてもう戻るもんか!
プロダクションも組織もわたし1人なんて使い捨ての捨て駒。もう新しい誰かがわたしの代わりに活躍してるはず。
捨て駒のわたしは、路肩に捨てられて雨に降られてずぶ濡れになった捨て猫と同じ。アサミは布団から這い出すとドアに向かって歩き出し、カチャ…と静かにドアを開けて顔を覗かせる…。よし、誰もいない。
左右を確認すると、そっと部屋を抜け出し、トイレに向かう。
中に誰もいないことを確認すると個室に入り床にへたり込む。
わたしなんて…わたしなんて。人を殺めてしまって、人の命を奪って、もうこんな世の中に用はない。
施設から用意された真新しい服のポケットからカッターを取り出して、手首に刃先を当てる。手はブルブルと震えていた。
涙が溢れんばかりに流れている。
ううッ…ううう。うああああッ!あああッ…!
カチャ…!アサミさん?アサミさん!あなた何してるの?
やめなさいッ!ダメ!いけない!
殺してぇ!…わたしを死なせて…!もう死なせて!
あなたまだ死んではいけない!自分の命をそんなに簡単に…粗末にしてはいけない。いけませんッ!
親からもらった大切な命じゃないの?
バシッ!バシッ!小百合はアサミの頬を左右ビンタをして抱きしめた…落ち着いて…落ち着いて…深呼吸、深呼吸。
ほら…やってみて。ね?
ふぅ…ふぅ…ふぅ…。大丈夫?アサミさん。
アサミは小百合の心臓の鼓動を耳で聞いていた…
ドクンッ…ドクンッ…ドクンッ。小百合の心音は早まっていた。
聞こえる?わたしの心臓の音…みんな、みんなね。ツライけど、精一杯生きてるの。それは何のために?
わたしも分からないわ。わたしが生きている意味。なぜこの世に生を受けて産まれてきたのか。わたしだって分からないわ。だからね?その理由を確かめるために生きてるのよ。
あなたにだって、その理由が必ずあるはず。
あなたが両親からもらったその大切な命。
あなたは自分のためだけじゃなくて、誰かのためにあるのだとわたしは感じる。誰かに勇気や希望を振り撒くためにあなたは必要とされている。わたしにはない特殊な才能。
わたしはあなたがとても羨ましく感じる。
だって、わたしにはそんな才能はないもの。
大切にしなきゃ…ね?苦しんでいる人は世の中に大勢いるわ。
あなたが元気にしてあげなきゃ。ね?分かるわね。
…はい。ごめんなさい…ごめんなさい。ううう…。
小百合に言われた言葉のひとつひとつが、アサミに響いていた。
魂を揺さぶられるようなそんな気がしていた。身体と顔が、カァ…と熱くあり熱っている。
部屋に戻されたアサミはベッドに腰掛けていた。
結花はまだ戻っていなかった。ふと、窓を見つめる。
窓から月の光が部屋に差し込んでいた。窓からは月が見えていて虹がかかったように輪になって光り輝いていた。
あ…!月虹だわ。綺麗。なんだか、久しぶり。落ち着いた気持ちで月を眺めるなんて。ゆったりした気持ちに心が少しだけ揺さぶられる。
カチャ…キィィィ。アサミが月を見てボォーとしているとドアが開いて結花がそっと覗き込んでいた。
あ!アサミさん。起きたんだ。
アサミは結花を見るや否や頭をチョコっと下げた。がしゃべりはしない。
…バンドや芸能界の話しは御法度だっけ。
うーむ、何を話せば良いのか。あ、そうだ。わたしが来たときの話しでもしたらいいか。
アサミさん…わたしは前の施設に2年くらい前に来たんだけどね…
「うるさい。黙れッ!静かにしろ…」
結花が自分のことを語り始めた瞬間に、アサミからキツイひと言が発せられた。
結花は、ビクッと萎縮してしまう。
…そこまで言うことないと思う…と心のうちに語りだした結花。
この人をここまで追い詰めた原因ってなんだろう。
アサミさんって、そんな人だったんですか?
結花は寂しさが込み上げてきた。
わたしはアサミさんから与えられたパワーと影響力は大きい。
わたしは、あなたが存在しなかったら…
「アタシはこんな人間なんだ。アンタの夢をぶち壊して悪かったな」
…この人は自分に素直になれない人なのか…
おそらく本心で言ってる言葉じゃない。
結花は手のひらを白い壁にピタリとあてがうとスゥ…と撫でながらその手触りを感じていた。
ザラザラしてる…この壁。まるで表面がザラついてる人間の心みたい。中身はしっかりしていて、土台は築かれているのにね。それに気づいていない人って哀れだと思う…。
「アタシに説教か?おまえ…」
結花が振り返ると掛け布団を被ったその隙間から鋭い眼光が覗きこみ、ギラつかせていた。
それはフードを被ってて中がよく見えない顔のような感じでマントを被った魔人か悪魔か死神のようにすら見える。
結花は身震いするのを堪えながら…怖い。この人。
心の奥底からくる震えが止まらなくなっていた。
わたしも確かにここに来た当初は、ギラついていたけど、ここまでではなかった。
結花はアサミに背中を向けると壁際で布団を被り震えていた。
しばらく沈黙が続いて…
「アンタもアタシに背を向けるのか?」とポツリとアサミが囁くように呟く。
お互いがお互いの壁際に向かい、ただ沈黙が続いている。
…アサミさんがキツイ言葉を言うからでしょ…と結花は頭で思っていたが、口には出さずにいた。
キーンと張り詰めた空気の漂う中、部屋内はひんやりした雰囲気が立ち込める。もう初夏だというのに。
外はどんなだろう…何の花が咲いているのかな?スイートピーかな。スイートピーは春だっけ。
春から初夏に移り変わる季節は心地よいよね。何だか生きている実感を感じられる季節だから、わたしは好きだな。そう思っているのは、結花ではなくアサミだった。心が純粋すぎる真っ直ぐな年頃。本心では素直になりたいけど、なれない。反発した言葉が思わず出てしまう。わたし…いったいなにしてんだろ。
アサミは壁に向かい、頭を打ちつけている。
「ドン…ドン…ドンッ!ドンッ!バシッ!」
…アサミ…さん?ちょ…ちょっと!何してるんですか!やめて!すみませーーんッ!誰かぁー!来てください!
カウンセラーやスタッフが数人部屋の中に入ってきて、アサミの掛け布団を引き離すとアサミが壁に思い切り頭を打ちつけて額から出血していた。
やめなさい!アサミさんッ!いけません!
「うるさいッ!死なせろ!アタシを殺せ!殺せ!」
「アタシは生きてる価値なんてないんだ!死なせろ!」
…ちょっと、鎮痛剤を持ってきて!早くして!
アサミは病室のある部屋に移動されていった。
結花さん、何があったの?聞かせてくれる?
結花から部屋の中での出来事を聞いたカウンセラー。
そうだったの…。あなたは悪くないわ。気にしないでいいのよ。
…ええ。気にしないと言えば嘘になりますけど…わたし。
何だか、アサミさんから救われたのに、今度はアサミさんに壊されてしまいそうです。
アサミさんは鎮痛剤で落ち着いて、今は寝ています。数日は観察してみますので、しばらくは1人で部屋を使っていてくれる?
…はい。でも大丈夫ですか?あの人。結花は今だに震えが止まらない。
結花さん…?あなた大丈夫?震えてるわよ。
あの人…怖い。恐ろしいオーラを感じます。
カウンセラーは結花を優しく抱きしめて「大丈夫、大丈夫よ。アサミさんは落ち着くまで隣の病室で療養させてみるから安心してね」
…はい。気遣いありがとうございます。
かちゃ…カウンセラーの小百合が部屋を出ていくと結花はドッと疲れが出てそのまま寝落ちした。
あそこまでやれば、しばらく1人になれる。みんな同じ。アタシから遠ざかる。アタシに背を向ける。どうせアイツも同じだよ。1人が気楽で安心。落ち着ける。友人なんていらない。どうせ、金目当てか身体目当てなんだ。貪るようにアタシからすべてを奪い去っていく。アタシの金をむしり取り、性欲を満たして。アタシはモノ。道具。商品。ただの飾り。ううう…。
パサッ…。入り口のドアの下の隙間から手紙が入ってきた。
何?アサミはムクッと起きると入り口に向かう。
手紙…?誰から?
手紙を持ったまま、ベッドに座ると開いてみる。そこにはこう書かれていた。
…アサミさん。結花です。昨日はゆっくりと話しを出来なかったので、話しも聞いてもらえないと思って手紙にしました。
わたしがここに初めて来たときもアサミさんのように、心が荒んでました。周りはみんな敵。わたしを救ってくれる人など、この世の中に存在しないと感じていました。
尖ったナイフのように、人を傷つけて傷ついて。わたしは、犯罪に加担してしまいました。知らないうちに巻き込まれていたんです。
日常生活にも嫌気がさしていました。ネガティヴで部屋に引きこもり。そんな日を過ごしていたある日。
わたしはある人のコンサートと出会いました。
その人は可愛くダンスも上手で。わたしが驚いたのはその声の素晴らしさに圧倒され魅力されていました。
時間も忘れて見入っていました。
笑顔を振り撒き、響き渡る声は見る人のすべてが圧倒されてました。その人は来栖アサミさんと言ってアイドル歌手でしたが、まるでロックシンガーのようでした。
みんなに振り撒く笑顔を見てちっぽけな自分の無能さと愚かさに反省してしまいました。
わたしは何をとんがっていたんだろう。何が不満なんだろうって考えさせられて、それ以来わたしは、この人を目指してこの人のようになりたいと思うようになりました。
それで自分のしでかした事を反省して、この施設に入る決意をしたんです。そうです。来栖アサミさん。あなたのおかげでわたしは立ち直ることができました。いまでも、これからもあなたには感謝しても感謝しきれないくらいです。
だから自分ばかり責めないで。自分の人生を放棄しないで。
決してあきらめないで。あなたは決して無能な人間じゃない。
あなたに救われた人を、わたしはたくさん知ってる。
あなたを必要としている人はわたしを含めてまだまだ大勢いることも知ってる。あなたが自分を責めるなら、その人たちが泣いてしまう。わたしには耐えられない。あなたは必要とされている人間。あなたの人生を無駄にしたらいけない。
天から与えられたその声。神様からもらったその美貌。
あなたの役に立てるなら、わたしは精一杯努力します。
どうかあなたの手助けをさせていただけないでしょうか?
わたしはいつでも扉を開けっぱなしにして、あなたを待ってます。あなたのペースでいいので…どうか。どうか。お願いします。
〜あなたの一ファンであり続ける結花より〜
アサミはその手紙をクシャクシャにしていた。
ブルブルと手を振るわせながら、その瞳からは涙が溢れて止めどなく流れ出していた。…うううッ…うう
両手で顔を覆いながら涙がこぼれないように塞いでいた。
背中を丸ませながら、頭を下げて顔を下にしながら、泣き崩れた。アサミは大声で泣いた。声を張り上げるように。
…わたし。何やってんだろ。バカだ。わたしはバカだ。
わたしの声は、【わたし自身だけの声】じゃないんだ。なんて無知で浅はかだったんだろう。自分のことばかり、他人を顧みず。愚かだったんだろう。
コンコン…コンコンコン…
アサミは顔を上げる。まだ泣き腫らした顔だったが、音のする方をみた。壁…?壁から?
コンコンコン…コンコンコン。と壁のノックは続いていた。
隣の部屋?その音は遠慮がちで小細い音だった。気を遣っているように。
アサミは無視をしてベッドに横になるといつのまにか寝てしまっていた。
アサミが寝入ったのを見計らったように、カウンセラーの小百合がそっと入室してくる。
小百合はアサミに近寄り掛け布団を開けてみると、背中を丸ませて両手を胸にあてがいながら泣き腫らした顔をみた。
ゆっくりとアサミの髪を優しく撫でながら手を見ると結花からの手紙が握られていた。
…泣いてたのね。アサミさん。もう大丈夫かしらね。笑
小百合は部屋を出ると結花の部屋には寄らずにそのまま自室に帰る。本人たちに任せましょう。わたしの出る幕ではないわ。
結花さんなら絶対にアサミさんを立ち直らせることが出来るはず。
翌日、結花は小百合にカウンセリングを受けていた。
小百合さん…。
ん?どうしたの?結花さん。
わたし…わたし…。
遠慮しないで言ってみて。
わたし…アサミさんのマネージャーになる。
マネージャーになって、彼女を必ず復帰させてみせる。
復活コンサートをさせたい。必ず実現させたい。
そう…あなたがそう思うならそうしなさい。
ただし、口先だけはダメ。公言して実現させなさい。
公言しないとダメ。
人はね、第三者に公言することによって、その夢が叶うものなの。中途半端な気持ちならやめなさい。
それから、数日…結花は毎日のように、壁をノックしていた。
返事はもちろんなかったが、諦めずにいた。
コンコンコン…コンコン…。今日も返事なし。明日もがんばるわ。わたし。
コンコンコン。
え?今ノックした?返ってきた?
結花は急いで返事をしてみる。
コンコンコン。すると…
コン、コココンコン、コンコン♪
うふッ…アサミ…返事してる。
コンコンコン。結花は再びノックしてみた。すると
入り口のドアが、コンコンコン…とノックしていた。
え?入り口?
はーい。小百合さん?ちょっと待ってください。
かちゃ…。ドアを開けるとアサミがリュックを前に持って立っていた。アサミさん…
「ちょっと…どいてくれる?アタシの部屋でもあるんだから」
え?、ああ、ごめんなさい。
…帰ってきてくれた。戻ってきてくれた。
「勘違いしないでよね?アタシは小百合さんに追い出されたから戻ってきたんだから。アンタの手紙なんかで戻ってきたんじゃないんだから…そうなんだから」
そうなんだ…。アサミの言葉に結花は少しがっかりしていたが、あとから聞いた話しではアサミのほうから直訴してきたらしい。部屋に戻りたいと自ら申し出てきた。
素直じゃないんだから…ふふふ。ま、いいか。
アサミが他人の温かい心に触れたのが初めてのことだった。
寄り添ってくれて、アタシを評価しない。
評価するばかりの数字だけの世界で育ってきたアサミにとって、気持ちを動かされた。もう少し結花のことが知りたくなっていた。
アサミさん…おやすみなさい…
アサミからは返事はなかった…が…
【月虹】 lyrics / 来栖アサミ/ayami hoshino
差し込む月明かりが 格子越しに包み込む
荒んだわたしの心に モノトーンの空間は
ただ味気なく 救いと言えばこの
窓から照らす月明かり わたしの犯した罪を
そんなあなただけが 優しく迎えてくれる
いま何をすべきかを そっと見つめてくれる
昨日までの土砂降りが 嘘のように晴れ渡り
月の輪が曇った空を 色鮮やかにして
丸い虹の輪を見て 今のわたしはなに想う
それは悲しさかそれとも 淋しさなのだろうか
悩みと苦しみ差し迫り わたしを圧迫する空間で
もがきながらも這い上がる そんなわたしの心を
白くて鮮やかな丸い輪に 希望ある未来を見い出して
救いの手を差し伸べる それは希望の光
遠くの星が輝く夜 夢のような未来を描いて
心に刻んだ想いの欠片 闇を照らし出す光
月虹が導く道の先 勇気を持って飛び出そう
絶え間ない時の中で 信じる力を胸に抱いて
遥かな空へ舞い上がれ 限りない夢を追いかけて
一つずつ歩を進めば 希望の光が差し込む
未知の世界が待っている 勇気を出して羽ばたこう
困難だって乗り越えられる 心の中で輝く光
どんな時も希望を抱いて 進む先に広がる景色
夢を追いかけて歩き続け 月虹のような明日へ
© .24 ayami hoshino
アサミと結花はお互いに壁際に向かって横になっていたが
突然小さな声で歌っていた…
その歌声を結花は背中で聴いていた。聴きながら涙が出ていた。
その歌詞の素晴らしさもあるが、透き通るような声はアサミの現役の時、以上の迫力があった。
結花は背筋がゾクゾクとして鳥肌が立っていた。
…なんて素晴らしい歌声なんだろう。心に訴えかけるように響き渡る。わたしの心に。いまだ、僅かな心の隙間のあるわたしの中に染み入るように。溶け込んでいく。わたし1人のためだけのコンサート。2人は背中合わせのまま、お互いを意識してお互いの気持ちと心を汲みとるようにただ、黙っていた。
翌日から、アサミはグループセラピーに参加してみることにした。
カウンセリング施設のスケジュールは、教育、再社会化、リハビリテーション、心理的サポートなど、様々な要素を考慮して組まれている。
アサミの日々の治療が始まり、心理カウンセリングやグループセラピーに参加した。もちろん初めのうちは緊張もあったが、徐々に他の参加者と交流を深めるようになり、自分の感情や過去の出来事に向き合う勇気を持つようになっていく。
そして、徐々にではあるがアサミは平常心を取り戻すようになる。
しかし、まだアサミの顔から笑顔は見られなかった。
アサミの口から白い歯がこぼれることはなかった。
精神的な苦痛はアサミにとって心の奥底まで浸透しているようで完治するのは困難かもしれない。
部屋で同室の結花とは少しづつではあるが、打ち解けはじめてきてはいたが、お互いが気にしていた。心の中にわだかまりが残っている。
そんな時期を過ごして、お互いに心を真から開けないまま、結花が施設を出る日が近づいていた。
アサミは結花にお礼が言いたかったが、どうしても自分の口から感謝の言葉を言えずにいた。
結花にお礼に言わなきゃ…でも。わたし、言い出せない。
これって、プライド?わたしは底辺まで落ちぶれたアイドル。
わたしにプライドなんて、もうない。もう堕ちるところまで落ちてしまった。
なぜ言い出せないの?恥ずかしいから?
あ…あの…さ。
ん?何?アサミさん。
いや、何でもないよ。…なぜ簡単なひとことが言えないの?
たった5文字なのに…たった5文字をなぜ言えないでいる?
「ありがとう」と言いたいだけなのに…
言わないとわたし、後悔する。絶対に。一生このことを引きずって生きていくことになる。それでいいわけ?
アサミさんは結花さんに何か言いたいんじゃなくて?
翌日、カウンセラーの小百合がポツリと呟いた。
さりげなく呟くように。
デスクで結花の出所の手続きをしながら、小百合はアサミに見る。アサミは下を俯きかげんに手をこまねいている様子だった。
…で?何か用なの?わたしに。
いえ…別に。
じゃあ何でわざわざこんな時間に来たのかしら?
結花が出所するまえにささやかな、お別れのパーティーなんかどうかと思って…。
いいわね!それ。良いアイデアだと思うけど、あなたが幹事になりなさい。準備もすべてあなたが行うの?いいわね?
わ、わたしが…ですか?
言い出しっぺなんだから当然でしょ。ね?
わ、わたしそういうの苦手だから…
じゃあ仕方ないわね。無しで…と言いながら小百合は、チラッとアサミを見ると、落ち込んだ顔つきで塞ぎこんでいる。
アサミさん…ときには勇気も必要だってことも学ばなきゃね。
あなた、いつも言ってるじゃないの。あの言葉…。
あ…カーネギー。
そうよ。なんて言うんだっけ?カーネギーは。
一歩踏み出せ…成功の近道。
わかってるじゃないの。やってみなさい。
はぁ…やってみます。
小百合は事務仕事の手を止めると、くるっと椅子を回転させてアサミを見つめて喋る。
アサミさん。あなたには才能があるのよ。
人にはない独創性、創作性も持ち合わせている。
そのセンスはズバ抜けてる。たぶんご両親の血を受け継いでいるのね。とくにお父さんの血が濃い。女の子はお父さんの血がお母さんの血よりも濃いらしいわ。アサミさん。
あなたは自分の才能をまったく活かしていない。
いま、それを試すときじゃなくて?
ハメを外すのも大いに結構。でもやりすぎないようにね。
あなたは今までじゅうぶんやってきたわ。その若さで。
私たち一般人が想像もできない重圧の中で。
もう与えられた仕事をしなくていいのよ。
あなたが思うように、やりたいように思い切りやってみなさい。そうすれば、あなた自身のなかで何かが開く。何か見つかるはず。これからやるべきことが。なすべきことが。
神から与えられたその力を存分に活かしなさい。
もう分かるわね?
はい…分かります。わたしが今やるべきこと…
アサミが小百合の部屋から出て、まもなくして、入れ替わるように、結花が話しがあるとやってきた。
話しって何?結花さん。
はい。実は…。
…なるほど。分かりました。そのことはアサミさんには伏せておきます。そのときがきたら、やってみるといいわ。
わたしは大賛成よ。よく決心したわね。小百合は結花の手を握りしめて笑っている。その手は力強い。
…はい。わたしなんかに務まるか、出来るか不安でしたがもう決めました。
わたしに手伝えることがあったら連絡ちょうだいね。
もちろんです。そのときはよろしくお願いします。
楽しみにしてるわ。
明日だったかしら?出所は?
はい。ここでは半年間お世話になりました。
向こうから移動されてきたときはどうなるかと思っていたけど、やり遂げたわね。偉いわ。
ありがとうございます。これもすべて小百合先生のおかげです。
ふふふ…わたしだけじゃないでしょ。
あなたを支えて助けてくれたのは、来栖アサミさんでしょ。
アイドルの…あ、違った。アイドルって言ったらあの子は機嫌を損ねるのよね。ロックシンガーのアサミだったわね。
…はい。わたしの恩師です。歳下ですけどね。笑
これから大変ね。あなたの知らない世界が待ってるわよ。
覚悟しておくことね。生半可な気持ちなら降りなさい。
相手にも迷惑がかかるから。
大丈夫ですよ。わたしなら。
わたしは一度死んだ人間です。一度人生を放棄した人間です。これ以上落ちることはありませんよ。
あとは登るだけです。
あなたらしい前向きでポジティブな考え方ね。
あなたなら大丈夫ね。じゃああとのことは、あなたに頼んだわよ。
日も暮れて夜の帳が下りる頃、ささやかながら結花の出所祝いが行われた。
結花も半年間だけだったが、施設にも仲間が出来てとても充実した日々を過ごしていたが、最後までアサミの笑顔を見ることは叶わなかった。
アサミも自分なりにお別れ会を開くことができて満足していた。アサミは皆んなからのささやかなプレゼントとして花束を用意していた。
最後に代表して小百合先生からひとことご挨拶をお願いします。
結花さん。無事に出所できたことを心から嬉しく思います。
施設の皆んなとも打ち解けて、仲良くなれたことはこれからのあなたの人生の励みになるでしょう。
ここで、学んだことを決して忘れずにこれからの人生を送ってください。
結花さんはその名前に相応しい行動をしてましたね。あなたの名前の由来について、深く考えたことはありますか?
いえ、まったくありませんでしたが。
あなたの名前はね。
「結」は結びつく、つながる、縁を持つといった意味を持ちます。これは人とのつながりや絆を象徴するものであり、大切な人々との結びつきを示すものです。
「花」は花や美しさを象徴します。これは、人の内面や外面の美しさ、またはその人自身が周囲に喜びや希望をもたらすような存在であることを意味しています。
だからね、「結花」という名前は、他人との結びつきと美しさを持つ人、または周囲に幸せや喜びをもたらす存在を表現する名前となんです。
あなたらしい素晴らしい名前じゃないですか。
あなたはとても前向きでポジティブなその人柄で笑顔が絶えずに周囲に喜びを与えられる人間。
自信を持ちなさい。がんばってね。
小百合の素晴らしい贈る言葉に皆んな拍手して、中には涙する人もいた。が、アサミは最後まで笑わなかった。
結花は花束を胸に持ち一礼すると拍手の中、皆んな一人一人の顔を見ていく。そして…アサミと目が合ったときに、その視線は止まった。お互いに顔を見合わせていたが、会話はなかったが、なぜか心は通じあっていたような気がしていた。
アサミも結花も心の中で、ありがとうと感謝の言葉で溢れていた。
そして夜が明けた…
見送りの仲間がいる中に、アサミの姿はなかった。
…アサミさん。最後まであなたの笑顔が見れなかった。
なんだか、淋しいね。
でもわたしは、いなくなってしまうけどがんばってね。
そう、伝えてもらえますか?小百合先生。
分かったわ。あなたの想いはきちんと私の口から伝えておくわ。
じゃあ、あのこと頼んだわよ。
はい!任せてください。
結花は施設を見渡す…ありがとう。ありがとうアサミさん。
じゃあ、またね。
結花は惜しみながらも施設の門に向かい歩いていく…と、
【ありがとう】
lyrics 来栖朝美 / ayami hoshino
ありがとう、君の笑顔が 暗い日々を照らしてくれた
囚われた時間、共にした日々 心から感謝しているよ
初めて会ったあの日から 君の優しさに触れて
孤独な夜も少しずつ 温かな光が差し込んだ
時には涙が溢れそうになっても 君の側にいて笑顔が見られた
共に歩んだこの道、一歩ずつ 君の存在が私を支えた
ありがとう、君の笑顔が 暗い日々を照らしてくれた
囚われた時間、共にした日々 心から感謝しているよ
壁に閉じ込められた日々も 君がいてくれたから乗り越えられた
信じてくれたその温もりが 私の心を強くしたんだ
時には希望が遠く感じられたけれど 君の笑顔が明日を照らしてくれた
共に歩んだこれからの道も きっと一緒に歩んでいける
ありがとう、君の笑顔が 暗い日々を照らしてくれた
囚われた時間、共にした日々 心から感謝しているよ
この歌声に込めた想い 永遠に続く友情の証だよ
ありがとう、君がそばにいてくれた これからもずっとそばにいよう
2人が過ごしたあの部屋の窓が、全開になっていて
アサミの力強い声がハッキリと聞こえてきた。
アサミさん…結花は涙を堪えきれなくなり、その眼から涙が溢れ出して止まらなかった。
アサミは声は現役の歌手時代を遥かに凌駕していて、素晴らしかった。
曲を作ってくれたんだ…だから姿を見なかったんだ…
一晩でこんなにも素晴らしい曲を…これ以上のプレゼントはない。こんなに素晴らしいプレゼントは今まで一度ももらったことなんてない。ありがとう…アサミさん。
アサミは歌い終えると結花に向かい、両手で手を振っていた。
とびきりの笑顔で…
ううッ…アサミさんが笑ってる。
初めてみた…アサミさんの笑顔…なんて可愛くて綺麗なんだろう。
アサミさーん!元気でねー!
結花もがんばんなよー!
アサミの笑顔は、アイドル時代のそれだった。彼女に笑顔が戻って自分を取り戻した瞬間だった。
施設のスタッフも仲間も小百合も皆んな泣いていた。
あんなに素晴らしい笑顔を出せるなんて…あの子ったら。
笑っちゃうわ。素直じゃないのよね。もう。
それから半年ほど経過したある日。
施設に一通の封筒が届いた。それは半年前に出所した結花からアサミへ宛てたものだった。
アサミさんへ。
お元気で過ごしてますか?突然のお手紙失礼します。今日はある人からアサミさん宛てにお手紙を預かってるので、送らせていただきました。
わたし宛てに手紙?誰だろう…
じつは、わたしが施設に入るまえに関わっていた悪い人たちのグループの中にいた女子が別の施設にいる話しはアサミさんに話したことがあるから分かると思いますけど、出所したことを報告に尋ねていったら、その施設にアサミさんのお母さんがいらっしゃることをお聞きしました。
本当に偶然だったので驚きました。
わたしもアサミさんからお母さんの話しは伺っていたので、事情は知ってましたけど。そのお母さんからアサミさんにお手紙を預かってきたので、送らせていただきました。
お母さんから伝言です。
是非いちど目を通してみたらいかがでしょう。
それでは、わたしも今起こしている事業があるので、失礼しますね。今度遊びに行きます。それでは失礼します。 結花より
お母さん…連絡はしていなかったけど、わたしのことを覚えているなんて。
アサミは当初は母親を突っぱねていて、悪い仲間と関わっていたりしていた。母親が施設に入ってることで、いじめられたりしたので、いつしか関わることになってしまっていた。
今ではそのことは後悔している。
結花の手紙の中に母親からの手紙が入っていた。
[アサミへ]
愛するアサミへ、
最初に、私の手紙を結花さんに託したとき、どれほどの感情が交差したことか。受け取ってくれるかどうか心配もしました。しかし言葉では表せないほど、心からあなたに伝えたいことがたくさんあります。
あなたがカウンセリング中にいる今、私の手紙が少しでもあなたの心に寄り添い、支えになればと願っています。施設での日々が、あなたの心に平和と希望をもたらすことを祈っています。
朝美という名前、それはあなたの父があなたに贈った名前です。あなたの父は、あなたの未来に幸せを願って、その名前を選びました。その名前には、あなたへの深い愛と願いが込められています。
「朝の美しさ」といった意味を持ち、新しい一日の始まりや希望、清らかさなどを象徴しています。アサミの音楽やパフォーマンスが、聴衆に朝のような爽やかな感覚や希望を与えることを想起させていることをわたしは感じています。
朝日というのはね、夜から開けて1番に世界中の人に温かな日差しを運ぶのよ。人は太陽の朝日を浴びて元気になるの。
今日一日始まる…と心も身体も引き締まる。そんな素晴らしい名前をお父さんは考えてくれたのよ。
カウンセリングが進む中で、過去の傷や悲しみに向き合うことは難しいことかもしれません。しかし、あなたは強くて勇敢な人です。どんな時も、あなたの内なる強さを信じています。
私はいつもあなたの味方であり、支えとなりたいと願っています。どんなに遠く離れていても、私の心はあなたと共にあります。あなたが未来に向かって歩む一歩一歩に、私の願いと愛がつまっています。
アサミ、あなたは私の誇りです。わたしもあなたから勇気と希望と元気をもらってます。あなたのライブを毎日のように流してます。どんな未来が待っていようとも、あなたの幸せが一番です。いつでも私はあなたを応援し、支えていきます。
心から愛しています。どうか安心して、前を向いて歩んでいってください。
あなたの母より
今まで結花以外の人からまともな手紙などもらったことはなかったアサミにとって、とても心が揺さぶれる思いだった。
ファンレターはいくつももらっていたが、多忙な日々の中読む暇など1日もなかった。わたしはこんな場所で立ち止まっていてはいけない。
ここにいる人たちからもわたしのファンの人たちからもわたしは勇気と希望とパワーをもらっていたんだ。
わたしが与えていたんじゃなくて、わたしもパワーをみんなからもらっていたことに気づかなかったなんて。
…アサミさん。大丈夫?
小百合がドアの隙間から顔を覗かせていた。
アサミはベッドに座り両手で顔を覆って泣いていた。
小百合はそっと近寄るとアサミのとなりに腰掛けた。
あなたひとりじゃないのよ…
じふんひとりで無理しようとしないで、ときには人に頼る勇気も必要よ。
みんな必ずあなたの力になり、助けてくれると思う。
…はい。ご配慮ありがとうございます。感謝しています。
わたしへの心遣いと気遣い、心から…。
いつもいつも感謝していました。わたし…素直になれなくて。
ごめんなさい…ごめんなさい。
もういいのよ。もういいの。
私からあなたにプレゼントがあるの。
…何ですか?
これなんだけどね。出所してあなたが精神的に追い込まれて心が病んだときに表紙だけでいいから見て、私たちを思い出してね。
アサミが小百合から渡されたのは一冊の本だった。
あなた、前に本が好きでよく読書をしていたわよね。学もあるし。
タイトルにはこう書かれている。
「歎異抄」
なんと読むんですか?
「たんにしょう」と読むの。
そう。でもあなたにはもう必要ないかもね。
あなたの声や言葉には魂が宿ってる。
人に訴えかけるものすごい力を持ってる。
そのことを決して忘れないでね。
…はい。ありがとうございます。
絶対に忘れません。今のお言葉。ここでの生活。
わたしは仏教も浄土真宗も親鸞も分からないんだけど、人が生きることに行き詰まったときに、人は何をすべきか?そういう難しいことが書いてあるらしいわ。
勘違いしないでね。わたしは仏教とか宗教にはまったく興味はないのよ。カウンセラーとして、一度は目を通す人もいるのよ。あなたのように行き詰まってる人には向いてると思っただけ。あなたもまもなく出所ね。
これからあなたには大きな課題が残されてる。
分かるわね?わたしが言わなくても。
…はい。もう大丈夫です。
わたしが今為すべきことはひとつしかありません。
じゃあそれに向かって突き進みなさい。
もし、あなたがちょっとでも躊躇して踏み出せなくなったら、あなたの座右の銘があるわよね?
「一歩踏み出せ!成功への近道」ですね?
小百合は笑いながら大きく頷いた。
肩の力を抜いて…深呼吸して…。
さっき話した親鸞が最後に言い残した言葉をわたしなりに解釈するとね…
彼はこう言い残している…。
まもなく私の一生は終わるであろう。
一度はあの世へ還るけれども、寄せては返す波のように、すぐに戻って来るからね。
一人いるときは二人、二人のときは三人と思ってください。
嬉しいときも悲しいときも、決してあなたは、一人ではない。
いつもそばに私たちがいるからね。
分かった?来栖朝美さん。あなたは「アサミ」から本名の「朝美」を名乗るといいわ。その方が運気が上がるわよ。笑
はい!いろいろと貴重な言葉をたくさんありがとうございました♪
あの日、結花はある施設に来ていた。始めからアサミの母親に会うために。アサミの母親に会いたいという思いが強かった。この施設に知り合いなど元からいない。
初めまして。私はアサミさんと同じ施設にいた「中条結花」と申します。
アサミとご一緒だったのね。それはお世話になりました。
あの子は今どう過ごしているんでしょう。
施設に来た当初のアサミさんは心がとても荒んでました。
見るものすべてに刃を向けるように眼をギラつかせていました。しかし、今の彼女は違います。本当の自分を取り戻しました。
それで…今日はそのことの報告だけじゃないわよね?
…はい。お母さんにお願いがありまして。お聞かせ願えますか?アサミさんのお父上のことを。アサミさんはことある毎に何かに行き詰まったときに、口ずさむ鼻歌があります。
おそらくアサミさんが幼少期に耳にしたんだと思います。
それを口ずさんで気持ちを落ち着かせています。
…そうだったのね。
分かったわ。アサミの父はね。アーティストだったの。
ギタリストだったのよ。有名ではなかったわ。
でもね、ギターのテクニックは業界でもトップクラスでね。彼の右に出るものは誰もいなかったわ。
彼はね。事故で腕を無くしたのよ。それでその道から引退した。それでプロダクションを立ち上げた。
それが、アサミが所属していたプロダクション。
何かの運命なのかもね。父親が立ち上げたプロダクションに知らずに所属していたなんて。
彼は身近なメンバーを集めてプロダクションを大きくしていった。そんな最中にあの事故が。車を運転していて事故を起こしてしまって亡くなったわ。即死だったの。ブレーキ痕がなかったから自殺だとされた。
しかしね。これには陰謀説があるのよ。彼が腕を無くしたのも事故死したのも誰かの策略だったらしいわ。ブレーキが細工されてあったみたいなのよ。噂ではアサミが殺してしまったプロダクションの社長。彼が陰で関わっていたとされている。わたしまで罪を擦りつけられてね。こんな施設に…。
このことはアサミには内緒よ。言わないでね。決して。
…はい。分かりました。今日はお会いしてくださってありがとうございました。
話しはそれだけ?結花さん。
いえ、実はですね。私は彼女のマネージャーをしようとプロダクションを立ち上げたんです。まだ小さいですけど。
まだアサミさんには言ってませんけど、復帰のためのコンサートを準備しています。アサミさんの場合は、事件も情状酌量の余地ありで、もうすぐ釈放される予定です。まだ未成年ですし。
しかしですね。問題がありまして…。
結花さん。わざわざわたしに会いに来てくれてありがとうね。
あ、そうだ。これをアサミに渡してくれませんか?
…これは?
手紙よ。あの子に前から渡そうとしていたんだけど、躊躇われてね。でもあなたがいらしてくれたから決心がついたわ。
わたしはね。あの子に救われたのよ。
…お母さんが、ですか?
ええ、そうよ。あの子が画面の中で大活躍している姿を見てわたしもあの子から勇気と希望をもらったの。この子が本当にわたしが産んだ子なのか?と驚いたわ。でも血は争えない。
あの子は、父親の血をきちんと受け継いでいるって感じたわ。
結花さん…あの子をよろしくお願いします。
…お任せください!アサミさんを立派に復帰させて、世間に度肝を抜かせて見せます。
頼もしいわね。じゃあよろしくお願いします。
朝美さん…ちょっとよろしいかしら?
はい、小百合先生。なんでしょう。
小百合に呼ばれた朝美は、部屋に通された。
座ってくれる?
そろそろ聞かせてくれる?あの日のこと…。
…分かりました。すべてお話しします。
その日わたしは、プロダクションの社長に呼ばれてました。夜も更けて遅い時間に…
しかし、そんなことはいつものこと。
社長は社長室の高級な皮仕様の北欧の椅子に腰掛けて、次のイベント企画会社の担当と話しをしていました。
わたしは社長の上に跨がり激しく動き、背中を反っては社長の背中を掻きむしっていた。
おいおい…あまり背中を引っ掻くなよ。妻が怪しむだろうが。
わたしは社長の耳に自分の頬を寄せると耳を甘噛みしながら耳に向かって吐息をかける。ふぅ……はぁ、はぁ。
社長のこめかみを掴むと、社長はわたしの大きく成り立ての乳房に顔を埋めてハダけた上着から剥き出しにして揉みしだきました。ぷちゅ…ぷちゅ…乳輪を舐め回すとむしゃぶりつき、吸い付いた。甘い香りのするわたしの首筋に舌を這わせながら、社長はわたしに向かってあの言葉を言ったんです。
「まあまあだな。飽きたけどな。おまえの身体も…タダだから我慢するけどな」
わたしは社長がイッたあとに社長の後ろに回るとデスクの上にあった万年筆で社長の首筋に突き刺した。
社長の首からは大量の血がブシュ…!と吹き出して、社長はわたしの身体を掴むと、「な、な、何をする…貴様。育てた恩を忘れやがって…」
社長はその場で倒れ込みました。バサッ…
ふう…ふう…ふう。わたしは万年筆を投げ捨てて、そばにあったハサミに付着した血を拭うように、自分の髪の毛で拭き取り、その場で自らの髪の毛をバッサリと切り落とし、社長の死体に投げ捨てた。「冥土の土産にしな…」
夜中だ。誰も見てない。わたしはそのまま行方をくらました。
わたしは我慢できたんだ。これくらい。これくらいのことなら耐えられたんだ。承知の上だったのに。社長のあのひとことさえなければ。あんなことを言われてまで。わたしはアンタらプロダクションの連中の愛人じゃないんだ。バカにして…人をバカにして…女をバカにして…。ううッ…
社長が亡くなったことは翌日の朝、発覚した。
出勤してきたプロダクションの社員により発見された。社長は全裸だったし、万年筆とハサミについた指紋とわたしの髪の毛が落ちていたことで犯人は、アイドル歌手の来栖アサミだと断定された。が、情状酌量の余地ありと判断されていた。
社長が自分のプロダクションに所属するアイドルを次々に手を出し愛人状態にしていたことは巷で有名な話しだった。
業界の関係者が口を合わすように、わたしを庇ってくれていたんです。わたしはあとからそのことを知りました。
仕方ねえよな。あの社長じゃあ殺されても。
アイドルやら女優がかわいそうだよ。あれじゃあ。
「俺たちは社長の愛人を育ててるわけじゃねえんだよ」
そう…そんなことがあったのね。
どんな理由があるにせよ、人を殺めてしまうことはいけないことだわ。それは分かるわね?
…はい。でもわたし…わたし。どうしても許せなかった。
あのひとことさえなければ、わたしは社長を殺してない。
ごめんなさい。ツライことを思い出させてしまったわね。
…いえ、いいんです。わたしはここで多くを学びました。
みなさんにはとても感謝しています。
人の温かさと思いやりをもらいました。
ここでのこと…わたしは一生忘れません。
その気持ちがあればどこでもやっていけるわ。あなたならね。
私たちは皆んな、あなたが再び画面の中で活躍してる姿を楽しみにしてる。精一杯頑張って。
アサミさーん!久しぶりです!
結花?結花ぁー!わたしが出所する当日施設の門まで結花が出迎えに来てくれていた。わたしはリュックを前に持ちながら、施設を見渡す。
…ここともお別れね。結花と初めて出会った場所ね。
これからはよろしくね。結花マネージャー!
ビシビシ行くわよ〜覚悟なさい。
お手柔らかにお願いします。
小百合さん。みなさん。お世話になりました。
…朝美さん。たまには結花さんといらしてね。
はい!お世話になりました。この御恩は一生忘れません。
お礼はまだ早いわよ。あなたが活躍してるのを見てからね。
…はい!それじゃあ。
朝美は結花と施設をあとにした。
それからしばらく経過してその日がやってきた。
ねぇ…本当にわたし、ロックインカーニバルなんかに出演できるわけ?ここは名だたるアーティストしか出れないのよ?
わたしなんて落ちぶれたアイドル上がりがそう簡単に出れる場所じゃないのよ。結花はマネージャーになったばかりだから分からないのよ。
…確かに。無名のアーティストなんだから出れないわ。
…無名?わたしが…?
そうよ。無名で通さないといけなかったのよ。
朝美は事件を起こしてるわよね?そうやすやすと出れない。
だから、ここは敏腕マネージャーの腕の見せどころね。
ちょっと来てくれる?
…うん。どこに行くの?
朝美は結花に連れられて裏方に通された。
そこには、見慣れた顔が並んでいた。
…まさか。まさかでしょ。君たちは。
朝美!朝美!朝美!久しぶりだな。俺たちはおまえが絶対にここに戻ってくるって信じてたぜ!
…みんな。そこにいたのは、「キラーアイドル」のバンドのメンバーだった。
よく探せたわね。朝美は感激していた。
朝美のためでしょう。彼らを探すのに苦労したのよ。東奔西走したわ。もうクタクタになるくらい。
やぁ。君たちかい。出演したいという飛び入りは。
マネージャーは君か?
はい。中条結花と申します。この度は無理を言ってわたしのお願いを聞いてくださって感謝しています。
いやいや、お礼は僕じゃなくてお母さんに言うんだね。
彼女の…
それで…?彼女は?
ご無沙汰しております。鈴木プロデューサー。
やぁ朝美くんじゃないか。ずいぶんと久しぶりじゃないか。
…その節は、ご迷惑とご心配をおかけしました。申し訳ありませんでした。朝美は深々と頭を下げて一分間黙っていた。
頭をあげなさい。事情はすべて把握してるよ。
君は悪くない。決してね。ああなってしまったのは残念だが、過ぎたことは忘れることだね。
それに、君のお父さんも望んでないよ。
…お父さん?父を…父をご存知なんですか?
ああ、もちろんだとも。お父さんとは私の戦友で同志だよ。
ずっと一緒にやってきたからね。
君は知らないだろうが、このロックインカーニバルを立ち上げたのは君のお父さんなんんだよ。
お父さんが…?そうだったんですか。
ロックインカーニバルのスタッフが集まってきた。
来栖朝美じゃないか。伝説のアイドル。いや、アーティストの。こりゃ、こりゃ…明日の報道のトップ記事だな。テレビも騒ぐぞ。業界全体がな。ロックインカーニバルも株が上がるぞ。
だって来栖朝美の復帰コンサートだもんな。
いいんですか…?わたしなんか出ても。
当たり前じゃないか。業界全体みんな君のお父さんのファンだったんだ。俺たちはみんな君のお父さんには感謝しても仕切れないくらいのことを助けられてきた。
今度は俺たちの番さ。
ありがとうございます…。朝美は声を震わせながら泣いていた。
朝美くん。君たちは大トリでいく。覆面をしてくれないか?
歌の途中で、その覆面をとって観客の度肝を抜いてやれ。
面白い企画ですね。こんな晴れ舞台を用意してくださって感謝しています。それじゃあ頼んだよ。
ま、君のことだ。大丈夫だろ。精一杯のパフォーマンスを期待してるよ。
朝美〜!おーい。朝美!
麻里?麻里じゃない!久しぶりぃ〜!来てくれたの?
2人は抱き合っていた。
麻里とは朝美の学生時代の親友だった。麻里だけは味方になってくれていた。
いってくるね。見ててね。わたしのパフォーマンスを。
それでは…今年もロックインカーニバルに来てくれてありがとうございました〜🎵
皆んな気をつけて帰ってね。
ラストのアーティストのBsが頭を下げていた。がボーカルの稲林さんが突然声を張り上げる。
今日は、飛び入りでゲストが来てます。みなさん。まだ帰るのは早いよ。
辺りは日が落ちて真っ暗になり出している。
照明が落とされて、突然激しいギターが響きだした。
ぎゅぃーーん!ジャンジャンジャン!
lyrics/来栖朝美•ayami hoshino
分かってる、伝わってくる、あなたの想い、
言わなくても、あなたならきっとこういうだろう。
それはお互いの信頼の証し。
言葉の持つ意味……発する言葉の力強さ
相手にどれだけのパワーを与えて生きているか……
ただしい道を 一緒に歩む
言葉じゃない 心が伝える
信じる力で 前へ進むよ
絆が導く 未来への軌跡
背中合わせで 時には涙
支え合って 笑顔重ねる
喜びも悲しみも 分かち合う
共に歩む その意味を知る
繋がる想いが 力に変わる
言葉の中に 夢が広がる
手を取り合って 高く羽ばたく
信じる強さで 世界は広がる
何も言わなくても わかり合える
深い絆が 心を繋ぐ
言葉よりも 大切なもの
愛と信頼 永遠に輝く
なんだなんだ。このボーカル。観客は皆んなその声の素晴らしさに圧倒されていた。
なんか。どこかで聴いたことがあるような声だ。
いつしか、観客の歓声はドヨメキに変わっていた。
朝美が覆面を脱ぎ捨てたからだ。
おい、おい。アレって…アレって、来栖朝美じゃねえか?
そうだよ!あの伝説のバンド「キラーアイドル」じゃねえかよ!戻ってきたのか!これは、大騒ぎになるぜ!
ひとまわりもふたまわりもデカくなって戻ってきてる。
曲が終わると観客が総立ちになり、いつまでも拍手が鳴り止まなかった。朝美たちは、ロックインカーニバルの観客を見渡す。その観客は奥のさらに奥のほうまで伸びていて、見えないくらい。観客は突然ウェーブを始める。
…うわぁ。綺麗…凄い。観客が…会場が一体化してる。
なんて素晴らしいんだろう。
そして、観客は一斉に…「おかえりなさぁーい!来栖朝美〜!キラーアイドル!あ、さ、み!あ、さ、み!あ、さ、み!」
その観客たちの歓声に朝美たちメンバーは度肝を抜かれた思いで、感極まって泣いていた。鳴り止まない拍手のなか、会場は静かになる。
(これより、発言や表現に一部不適切なものが含まれることもあります。演出上のことなので、ご理解ご了承ください。)
…みなさん。今日は、ロックインカーニバルにご参加頂きありがとうございました。また、私たちキラーアイドルを快く受け入れてくださったプロデューサーに関係者の皆様方。心から感謝します。
わたしは、この何年か服役していました。みなさんには、多大なるご心配とご迷惑をおかけしました。
大変申し訳ありません。犯した罪を償って、反省し、きちんと服役を全うしながらも、発生練習にボイトレ、ボディートレーニングをしてきました。この日のために…この日のためだけに。
人を殺めてしまい、こんな盛大なステージを用意していたあだき、大変心苦しく感じております。
わたしなどが出れるような立場にないことは分かっております。しかし、今一度、私どもにチャンスをいただけませんでしょうか?
わたしは、後ろを振り返らずに前だけをしっかりと見据えて精進してまいります。どうか皆様方のお力を私ども「キラーアイドル」にお貸しいただけませんでしょうか?お願いします。
会場からは拍手が湧き起こりそれは、10分間続いていた。
朝美くん…もういいよ。君は君の為すべきことがこれから山のようにある。しかしまぁ、君たちの新曲には驚かされたよ。
圧倒された。君はやはり、お父さんの血をきちんと受け継いでいる。肌で感じたよ。鳥肌モンだよ。とても素晴らしかった。
鈴木プロデューサー…今日は出演させていただきまして、ありがとうございました。
いやいや、こっちがありがとうだよ。
このカーニバルに来年からは、さらに盛り上がるだろうな。君たちと出演者の人たちのおかげで。
ロックインカーニバルは、大成功のまま終了した。それから…
…小百合さぁ〜ん!お久しぶりでーす!
朝美は、結花と一緒に施設を訪れていた。
朝美さん!結花さん!忙しそうね。
…はい!毎日メッチャ忙しいです。これも施設の関係者と小百合さんのおかげですよ。
毎日拝見してるわよ。笑顔が素晴らしいじゃない。
ここに来た当初と同じ人物とは思えないわよ。
…あ〜あ、それ言いっこ無しですよ。笑
お父さんのお墓には行ってきた?
…はい。母と2人で。近況を報告してきました。
そう…じゃあ、もう大丈夫ね。あなたはあなたらしくね。あなたの言葉で、与えられた言葉やセリフじゃなくて。
苦しんだり、悩んだり、その場に立ち止まった時は…。
『一歩踏み出せ、成功への近道』ですよね?
そうよ。あと、歎異抄もね。笑
ここまで、お読みいただきありがとうございました。
誤字脱字などありましたことをお詫びいたします。
〜星野彩美〜
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